『 』
後ろから名を呼ばれた気がした。
緩やかに振り返る。
ゆらり揺れた黒い髪。
靄が掛かった様に朧げなシルエットのみが浮かぶ。
それでも間違う筈はない。
ただ自分の知るアイツではなくなったのだと
その風に靡く長い長い髪が訴えかける様に 胸を締め付ける。
もう 良いから---
”モウ オレニ カマウナ”
言ったつもりが声が出なかった。
声帯を奪われた様に。
口がぱくぱくと動くだけ。
ヒュゥヒュゥ。と喉から空気の音だけが頭に響く。
何もかもが自分の手から零れ堕ちて行く感覚。
変に頭の奥が冷えていく。
ハッ。と自嘲気味な笑いを穿いた。
”モウ ダレモ
オレニ チカヅクナ---”
物言えぬ狩人は
奥へ奥へと進んで行ってしまったのです。
『---貴方は今
ナニをヲモっていますか。』
優姫は閉ざされた箱の中で 届く事のない文章を繰り返し繰り返し毎日の様にしたためていた。
ペンを走らせる度に浮かぶのは 何もかも忘れて過ごしていた人間の頃のキヲク、ヲモイ、---スガタ。
紙にヲモイを綴る時間だけはヨロコビのキヲクに浸る事が出来た。
貴方の隣でいつも笑っていられた私は 今は近くてとても遠い。
優姫はふと思考を止める。
窓の外はヒラヒラと白い雪が舞っていた。
不意に身体がビクリと揺れる。
堪らなく喉が渇く。
『はぁ・・はぁッ』
自分の身体を抱きしめ 喉を掻きむしる。
記憶を取り戻し おにいさまの血を分けて貰ってから私は血を欲する吸血鬼となった。
発作の様に焦がれるこの行為を私はわかっていなかった。
こんなにも焦がれてしまう---
瞬間揺らめく炎の様に自分を見る紅色に染まった瞳を思い出した。
『ぜ・・ッ』
呼んでしまったら とめどなく何かが溢れそうになる気がして言葉を飲み込んだ。
この苦しいヲモイの果てにあるのは
飢えを抑える為か。
それとも彼を求めるものなのか。
優姫は机に広がる手紙をくしゃり握った。
それは過去の記憶。
”俺なんかじゃなく玖蘭枢に血を吸って欲しかったんだろうな”
伏し目がちに含む様に言われた言葉。
何もない空間に響く---
ここは何処?
”理解る--”
”そういう味がした”
零の姿は見えない。
けれど近くで震える空気が彼であると感じさせる。
”俺はお前の血だけが欲しかったよ”
声ではない何か。
頭に響いて浸透する様に入ってくる言葉は 彼が発しているものだと身体の奥から感じさせた。
すぐそこに側にいないはずの彼がいる。
靄の掛かった視界の中でフラッシュバックされた過去のキヲクが目の前を通り過ぎていく。
(これは夢なんだ)
冷静に感じる自分がもう一人 すぐ後ろにいるようだった。
それでも。
どうしても一緒にいられないのなら・・・
(せめて夢の中でだけでも)
後ろの自分が思った瞬間
バチリと空気が揺れて視界が晴れた。
焦がれた銀の髪が鮮やかに目の前に現れる。
怪我をした自分の指から滴る血を
艶やかな瞳で自分を見つめながら絡めとる零の姿が映し出された。
吸血鬼の本能に従う零の姿に。
自分を見つめる眼差しに眩暈がする。
(ぁあ・・零がいる---)
”欲しい”
その瞳からヲモイが流れ込む様に。
ドクドクと心臓が脈を打つ。
”欲しい”
零の言葉が自分に刻まれていく様に体内に響く。
零から目が離せなくなった。
いつもこの瞳に囚われてしまう。
”お前が 欲しい!”
『あッ』
零の牙が優姫の腕を貫いた。
ビリビリと電流が走るような切ない想いが全身を駆け抜ける。
紅く煌めくその先に零は何をヲモっていたのか。
この響いてくる感情は夢の中の自分?
それとも?
夢の中であると感じながらも零に触れられている部分だけは妙に熱を持って
腕の痛みも血の香りでさえもリアルに感じられた。
零に触れたいと頬にそっと手を伸ばす。
(このままずっと・・・)
優姫は甘いまどろみの中で余韻に浸る様に瞼を閉じた。
急速に浮上して覚醒すると当たり前の様に近くに零の姿はなく
ベッドの上で静かな現実に落胆する。
ふと零に貫かれた腕を見る。
傷など跡形もない。
シャリ。と零と繋がるブレスが音を立て揺れた。
何故あんな夢を見たのだろう。
それだけ自分が彼を渇望していると言う事だろうか。
優姫はベッドから出ると着替えを済ませ
机の引き出しから したためた手紙を手に取る。
ずっと家に閉じこもっているせいか 気付くと思い出に浸ってしまう。
気付くと零の事を想ってしまう。
(おにいさまの側に居ると言うのに。)
優姫は手紙を引き出しに戻すと窓の外に目をやる。
あの人の側にいると血の鎖に捕われたように
定められた様に想いはおにいさまでいっぱいになってしまうから。
それでもふと気付くと零の事をヲモって忘れられない。
どれが本当の自分のキモチなのか。
もう外は冬景色だ。
季節は変わって行くのに自分は取り残されていくような気がした。
そしてまた思考の隅に彼が現れる。
夢の中で零と繋がっていた腕に目をやる。
”そう言う味がした”
零は味で気持ちがわかると言っていた。
どんな味?
おにいさまを想う自分の血。
零に貫かれたであろう場所にそっと唇を落とす。
今の私はどんな血が流れているのだろう。
変わらずおにいさまを想う血だろうか。
未だ知らない貴方の血はどんな味がするのだろうか。
そして---
(今は誰を求めているのだろうか)
瞼を閉じると熱に浮かされた零の瞳が浮かんだ。
自分を見る瞳。
自分を求める瞳。
(今はその瞳で誰を見ているのだろうか---)
思わず目を見開き胸をぎゅっと掴んだ。
苦しくて呼吸が出来なくなりそうだった。
そんな事考えたくなかった。
ピシリ。と窓硝子に亀裂が走る。
自分はおにいさまと共に歩いて行くと言うのに
零が他の誰かと共に歩いて行ってしまう事がこんなにも苦しく感じるなんて---
(何て身勝手な感情なんだろう)
優姫の瞳が朱みを帯びた吸血鬼の熱に包まれた。
『錐生くん!』
後ろから名を呼ばれた零は立ち止まり声がした方に振り返った。
以前 塀から落ちそうになったのを零が助けた女の子だった。
(新藤さん?)
優姫は二人が会話を交わしている所をじーっと見つめていた。
いつもの零であれば至極嫌そうな顔をして追い払ってしまう所だが
珍しく顔を合わせ 何か長く言葉を交わしている。
すると後ろから
『最近 頻繁に声をかけてくるようになったみたい。』
と言う声が聞こえた。
優姫は振り返ってみたがそこには誰もいなかった。
バサリ。髪が長い吸血鬼の自分の姿になる。
突然伸びた髪を掬う。
(また夢・・・?)
視線を二人に戻す。
まだ話をしているようだった。
今 零の瞳は彼女を映している。
自分ではない別の誰か。
また胸が苦しくなる。
二人は振り返りこちらに向かって歩いて来る。
先程声を掛けた女の子は一瞬の内に親友の顔に代わっていた。
(!
・・・頼ちゃん?!)
零は少し柔らかい表情を彼女に向けた。
優姫はあまりの事にその場から離れられず
見開いた目は二人を捕らえて外せなくなった。
(零と・・頼ちゃん?・・・)
零に幸せになって欲しい
って
笑顔を見せて欲しい
って
そう言う人が見つかると良い
って思うけどでも
”お前には玖蘭がいるだろう”
ぶんぶんと首を横に振る。
例えそれが大好きな親友だったとしても。
譲りたくないこの気持ちは自分の奥の奥の気持ち。
そんな事思うのは狡くて我が儘で勝手な事だとわかっているけれど
(でも 今は私の夢の中だもの!)
『零!』
思わずその名を呼ぶ。
こちらに向かって来ているのに二人は気付かない。
声が届かない。
零と沙頼は優姫の横を何事もないように通り過ぎた。
『零!零!』
優姫は声を荒げて何回も零の名を呼んだ。
側に駆け寄りたいのに足が固定された様に動かなかった。
手を伸ばし空を掴む。
”シャリ”
腕のブレスが音を立て光った。
『--零ッ!』
その声に零はぴくりと体を震わせて立ち止まる。
そしてゆっくりと優姫の方に振り返った。
先程は存在を感じていなかったであろう優姫の姿を
視界の先に朧げに捕らえている様に窺っている。
しかし零の視線は微妙に逸れて
優姫のそれとぴったり交わる事はなかった。
零は目を細め静かに口を開く。
”
もう 俺に構うな ”
声は聞こえない。
この空間にいる時に感じるのはいつもいつも振動が刻まれる様に届く言葉だけ。
頭に響く重い言葉。
優しかったそれはみるみる眉間に皺を寄せて苦い表情に変化する。
”もう いらない”
”もう誰も 俺に近付くな!”
拒絶された瞬間
バリバリと音を立てて零の姿は跡形もなく消え去った。
優姫は零が消えた場所を茫然と見つめたまま動けずに立ち尽くす。
『夢の中でも一緒には居られないの?』
何もかも消えた空間に優姫の言葉が虚しく響いた。
-------->
続きます。

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